人は、自己を伝えきれるのか。結局は孤独に生まれ、孤絶へと向かうのか。
以前、このブログで町田康「告白」への感想を書き記した際に書いた一行。
でも、もしヒトが、自分の考えていることを結局は誰にも「伝える」ことができないとしても、その同じ深さで孤独を感じている誰かが側にいたら、それは「孤独」だけでない何かを感じることができるんじゃないか。分かり合えている幻想とも、ただ一人という孤絶とも違う、名前のない感情を。
そんなことを考えていた、雨の三連休。
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17 Jul 2006
1 Jul 2006
舞台|阪神淡路大震災全記録
先週に見た舞台の、脚本及び制作記録です。蕎麦屋で読んでいて、先週の舞台を
思い出してまた涙腺が緩みました。
「この芝居の本質は、俳優が被災すること。その一言に尽きる。俳優が被災すれば
空間が被災地と化す。観客も被災を追体験できる。観客は、知識としてではなく
「感覚」として被災というものを実感し・・・(略)」
まさに、意図通りにやられました。
一週間経って振り返ると舞台はあくまで「表現」であり、「報道」ではないのかも
しれません。本の中でも『「報道」ではなく「作品」が必要だと・・・』との記述
があります。
ただ、「報道」が、フレーミングするにせよ事実を事実のまま伝えることならば、
伝えてもらった感情は、限りなく実際に近づけて被災した方々の感情を掴もうと
努力した俳優の人達にとっては(神戸出身でない人にとっても)事実であり、この
舞台を「報道」と言うこともできるのではないでしょうか。
こう言っていたら、「表現」と「報道」を完全に分けて考えることが無意味であり、
事実に無機質な情報ばかりではなく人の感情までを含むのならば、そこには間違い
なく交差領域があるのでしょう。それは、素敵な作品であると同時に、素敵な報道
であるのではないでしょうか。
事実や嘘の情報の洪水の中に身を置きながらも、エモーショナルな部分を少しでも
想像できる人間でありたい。そして、伝えられる人間になりたい。そう思います。
追記)
ヒトに対して懐疑的でありながらも、それにもかかわらず、ヒトを信じる。
そういう矛盾した感情を、忘れないでいたい。
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