18 Jul 2005

民主主義は非効率

民主主義は非効率だ。

別にアローの定理を指して言っているわけではなく、(これはこれできちんと理解しておくべきだが)実感的にそう感じている。別に民主主義を避難しているわけじゃなく、それ(効率という価値観を最重要視していない)を前提にして、意思決定過程を考えなきゃいけないはずだろう。

民主主義には、もしくは国家には明確な目的が定められているわけではない。どちらかというと、目的を共有している人間の集まりではない。様々な思惑と意図を持つ人間によって構成されている(されざるをえない)。

なぜなら、組織と違い国家はほぼ所与なものである。個人の選好により選ぶケースは少ない。そこに「共通目的」みたいなものがセットされないのも、当然と言えば当然かもしれない。これは国家成立直後は当てはまらないが、国家が成熟すればするほど当てはまるだろう。

だから、非効率になっていって当然なんだろう。でも、排除を繰り返し同質になることで効率性を高めようとするのではなく、多様な価値観の人間を無理にでも内包し、妥協と罵倒を繰り返しながら、寛容の精神で共生していく。それでよいのだと思う。

だから自分は、効率的なエリート型民主主義をうさんくさく感じ、非効率な参加型民主主義を気に入っている。なにより、自分も、参加によって考え行動する機会を与えられた人間だから。

余談だが、組織(目的を共有しコミュニケーションを取りながら目的達成のために行動する人間の集合体)の運営に民主主義は適切ではない。なぜなら組織には目的(価値観)がセットされているからであり、感覚的にそこからほとんどの意思決定の判断は論理的に考えれば導出、選択できる。そこに、合議の必要性は存在しない(ただし、合議する(あるいは、合議するふり
をすることにより目的を共有する・コミュニケーションを取る等組織をより動かし易くすることができるという効果は十二分に考慮すべきだろう)。

14 Jul 2005

お遍路(2)

というわけで行ってきました( ・∀・)

といっても非常に近場であるここだけど。
一応「四国八十八ヶ所霊場のうつしでもあります」らしい。

いろいろ考えながら回れるかと思っていたが、歩き出したらはぁはぁいい出して、無思考状態。あるいみはっぴー。

願掛けも兼ねて、小一時間でさらっと回れたが、山道を駆けめぐった?ため思いの外体力を損失。ぐわぁ、絶対値自体が大幅に落ちている。まじぃ。というわけで夜のランニングを復活。似た状況の友人に負けてなるものか。関係ないけど検索したらこんなん出てきた。くはは。

12 Jul 2005

追悼 小倉昌男さん

以前に少しだけ触れた小倉昌男さんが、少し前に亡くなられた



彼の著作である「小倉昌男 経営学」等に非常に感銘を受けていたので、今回の知らせは衝撃だった。「おかしいこと」に対して筋を通して霞ヶ関と闘い、「宅配便」を作って採算の取れる規模まで事業を拡大し、引退後は自分の保有していたヤマト株売却代金を基礎にヤマト福祉財団を設立し、最終的には全株を売却して無報酬でヤマト福祉財団の運営に当たり、福祉へ経営の視点を導入する活動を精力的に行っていると聞いていた。

自分が「こうありたい、こう老いたい」と思わせてくれた素敵な方だった。

アイセックをやりながら彼の「経営学」に出てくる、経営リーダー10の条件
  1. 論理的思考
  2. 時代の風を読む
  3. 戦略的思考
  4. 攻めの経営
  5. 行政に頼らぬ自立の精神
  6. 政治家に頼るな、自助努力あるのみ
  7. マスコミとの良い関係
  8. 明るい性格
  9. 身銭を切ること
  10. 高い倫理観
を読むたびに、「自分はまだまだすぎる・・・」と思ったものだった。

この人のことを思い返すたびに、社会貢献をなす公器としての会社の存在を強く思い、それが「会社は誰のために存在するのか」という問いへの一つの解だと感じる。そして、「誰のモノか」を問う前に、お客さん・従業員・株主・経営陣・ステークホルダーにWin-Winの関係を構築することが「経営」なんだと思う。

経営者になるんだったら、小倉さんのような経営者になりたい。逆に、その条件を満たさないで「経営者」だなんておこがましい。おかしいと思ったときに、筋を通せる。そんな人間でありたい。お会いしたことすらないですが、ご冥福をお祈りします。

8 Jul 2005

当落線上~都議選(3)~

ちょっと都議選を分析してみた。

まずは、「当落線上」と言われる線は、今回の選挙では一体どのあたりだったのだろうか。手法としては、得票率で線を引くことを考えたが、選挙区ごとの定数の違いを補正して有権者の支持を計算することとした。

まずは、当選者と落選者に分けて、それぞれの得票数を定数当たり選挙区有権者数で除した割合(得票数÷選挙区有権者数÷定数)を求め、5%の階層ごとでヒストグラム(実際には折れ線グラフ)を作成して、定数当たり有権者数のどのくらいの支持が分岐点、すなわち「当落線上」になるのかを見てみた。結果は次の適当な題名のグラフの通り。

2005年東京都議会 当落線上
当落が分かれたのは20%-25%の支持のレンジだった。それ以下のレンジで当選している候補者は4名、逆にそれ以上なのに落選してしまった候補者は8名だった。定数が126名であったことを考えれば、1割弱の人が他の選挙区と比較して少し不可思議な投票結果となっており、9割くらいの人は正当な結果となったと言えるのではないだろうか(ただし当落線上の人たちを詳細
に分析してみないとそうとも言い切れない)。

そもそも、この「当落線」が20-25%という数字は、基本的には投票率に左右される線なのだろうけど、選挙区の定数当たりの有権者の1/4超の意思さえ集まれば、ある人間を都政に送り込めるということになる。さらに、実際の過半数に等しい50%以上の支持を集めた当選者はわずか10名だった。

この数字を多いと見るか、少ないと見るか。少ないだろ。民主主義っていう余り効率的でないシステムの大前提である人民の参加が得られないと、このシステムはますます非効率になるばかりだろう。

自由論

世の中には、フィクションの存在がたくさんある。

その中でも、「それを守る/維持するための」行動が正当化されやすい代表的
なフィクションとしては、
 ・国民(nationality)
 ・民族(ethnicity)
 ・自己同一性(identity)
なんかじゃないだろうか。

※国家は「制度」であるという二面性もあるのではずしました。

でも、それらを守ったからといって、人間がハッピーになるわけではない。
たしかに心の拠り所にはなる。その安心感だけで、十分なのかもしれない。
でも、自分には違和感がある。それは、一種の思考放棄だから。

こういった「誰かの幻想」から自由になること。
1人1人の人間にとっての価値を見つめること。
具体的に、考えること。
「人のいうことを聞かない」=「徹底的に自分の頭で考える」
全ての幻想から解き放たれて、自己以外拠り所のない、孤独。
それが、自分にとっての自由だと思う。

3 Jul 2005

選挙バイト~都議選(2)~

都議選のアルバイト(投票所設営+投票事務+開票事務)をやった。拘束時間は長いにせよ、最忙時を想定してバッファーがあるため、かなりのんびりだった。立会人のおばちゃんと、お茶を飲みながら年金について話を聞いたり、トクヨウ(特別養護老人ホームの略称、最初何のことを言っているのだかわからなかった)の話を聞いたり。

ちょうど社会保障法やら財政学やらでいろいろと学んでいたことが役に立ち、同じバイトの学生さんよりも職員さんや立会人の方々との会話の方が盛り上がる。

↓記念に腕章をパチリ。もちろん返却済み。


投票率は43.99%と過去二番目の低さとなった。一番ひどいのは港区で34.08%、次いで渋谷区の34.33%。一方で、一番高いのは島部の68.66%。大きく離れて北多摩第一(東村山市、東大和市、武蔵村山市、北多摩第二)の50.3%。

やはり、議員が身近ではない、すなわち議員当たりの有権者数が多いほうが有効感が低くなって投票行動をとらなくなる(モデル)のではないかと考えて、選挙区ごとの投票率と定数当たり有権者人口をプロットして相関を見てみた。

2005年東京都議選 定数あたり有権者数と投票率の相関

島部の外れ値を補正して計算したら、残念ながらめぼしい結果は出ず。残念。