30 Jun 2005

マクドナルド

マクドナルドの当期業績予想の下方修正の発表があったのは17日
んで、23日に店舗@自宅近くに行ったところバリューセット+100円マックの
組合わせを提唱する(+祖利益が高そうな商品の単独割引)クーポンを配り
30日に同じ店に行ったら、メニューから100円マックシリーズが脇にのけられ
バリューセットが幅をきかせていた。

経営のスピードとしては、もう少し早くできそうだけど、数字が揃って1ヶ月
以内に次の打ち手をだしてくるのは、あれだけの大企業にしては早いんだろう。

100円マックシリーズの投入自体、ほとんど既存製品の値下げ(すなわち祖利
のお客への還元)により、客単価を犠牲にして客数の向上を図り、結果的に
それらの掛け算となる売上高アップを狙ったものだろう。CMも100円有るなら
傘買うよりマックで100円使って雨宿りして下さい、とうたっていたし。
その意図していたこと自体は成功したはず。ただ、当然だが利益は出にくく
なった。そりゃ100円マックにせよバリューセットにせよ今までより値段を
下げているのだから(かつ、革新的なコストカットがあったということも
考えられずむしろ「メイドフォーユー」により設備+人件費が嵩んでいる)。
ただ、それで今どたばたとお客の購買行動をバリューセットにシフトしよう
としているのは、多分、想定していた以上に「100円マックだけ」のお客が
多かったということなんだろう。

基本的にはお客は食事目的と食事以外(打ち合わせや休憩、ようは机と椅子)
目的のどちらかで、前者は値段の下がったバリューセットを頼む人と、差別化
されない「ドリンク」に手を出さず、またおそらく祖利益一番高い「ポテト」
に価値を見出さないで単品や100円マックですませる人で、後者は100円マック
のおかげで安くなったドリンクSですませて長居する人になる。
でも、客単価上げようにもバリューセットの再値上げはまた客離れを生むかも
だし、クーポンで提示しているバリューセット+100円マックは正味日本人の
お昼の胃袋的に多い気がするので定着はしなそう。

となると、次の打ち手は、既存製品を強くする作戦=祖利益高そうなポテトに
付加価値を付けていく作戦(例、ファーストキッチン)か、新製品を投入する
作戦=高級ブランドを投入する作戦(例、モスバーガー)のどちらかだろう。
個人的には、高級路線よりも、味気ないポテトからの脱却を図って欲しい。
というか、そもそも開き直って「ウチは薄利多売だ!」の姿勢で消費者的には
よいのだが資本市場的には許されないんだろうな。配当出にくくなるし。
ちなみに、クーポンが配られようがメニューが変わろうが、その前までと同様
どちらも200円しか使わなかったし、それは100円マックがある限り変えられ
なさそう。資金繰り的問題。くわあ。残念。

20 Jun 2005

選挙~都議選(1)~

7/3の都議選のアルバイトをすることになった。選挙区は武蔵野市。投票所設営から手伝って、投票受付、開票作業までを朝から晩まで従事する予定。

既に成人なので、何回か投票はしたことがあるのだが、逆の立場から見ることができるので非常に楽しみである。

ただ、選挙区が違う自分がその日に投票出来ないことは自明なので、不在者投票をせねばならぬ。むかし、アイセックの総会と重なって不在者投票をしたことがあるので、やり方は知っているが、投票前に駅前に行く等選挙の「お祭り」感を味わえないのはちと残念ではある。

そういえば、偉大なる蒲島先生政治参加の中で農村部における選挙の「お祭り」性を少しだけ指摘していたような。

それにしても投票率上がらないものかね。よのなか、そんなアナーキーな人ばかりではないはずだが。投票行動を説明するいろんなモデルがあったが、
「影響を与える可能性P×政策実施により得られる利益B+投票義務感D-投票コストC<=0」
だと棄権するというモデルが
あったと思うが、Cが上がっているというよりはPが下がっているのではないだろうか。つまり、「せっかくの休日に、何のためになるかも分からぬ投票しに行くよりは酒でもかっくらって寝ていよう」ということになる。Dを上げるために投票を法令かなんかで義務化するよりは、Pを上げるために、区域を小さくしていく方が、より個々の人の幸せにつながるのではないないのかなぁと、最近はそんな風に考えている。

13 Jun 2005

誕生日

各種メディアを駆使してお祝いメッセージをくれた方々には、とても感謝
してます。この場を借りて、ありがとうと感謝の気持ちを表現したい。

「観念的な痛みが理解できても、身体での実感が伴わない、そんな年頃だと
 思うが、どうバランスを取っていくのか期待している」
というメッセージを伯父からもらったが、まさに最近は(あえて)そうして
いる面もあったと思う。

これまでは「行動してから考える」ことが多かったので、あえて「行動せずただ考えてみる」数ヶ月を送ってきた。自分の中の観念的なものを固めてみようと思っていたが、いかんせんふわふわ浮いてきている気がしている。

てなわけで、また少しずつ、自分なりの課題を見つけて実際に動いてみる生活に戻していこうかと思う。精神から成る世界を広げるのも重要だけれど、身体から成る世界を広げることも、身体が欲している。「百聞は一見に如かず」の精神で。

10 Jun 2005

キャリア・デザイン

キャリア・「アップ」という言葉が嫌いだ。

特に、転職サービス会社とかの広告で、
"営業職からコンサルタントへ転職、キャリア・アップで年収50万円増"
とか見ると嫌な気持ちになる。

そうじゃなくて、キャリアって、背負って生きるしかないもんだろう。「あっちに行けばよいキャリアが得られる」じゃなくて「あっちに行ってこれまで積み上げてきたキャリアで新しいキャリアを作れるか」を考えるべきなんじゃないかなぁと思う。そんなすぐに人間は変われないし。

それも、自分でコントロールできるのは「方向」くらいで、後は運命の流れに身を任せるしかないのかなと。「縁」と言ってもいいと思う。それは、どちらかと言うとアーティスティックな「デザイン」の世界だろう。

だから、最終的には「キャリア・コンサルタント」とかのアドバイスではなく自分で腹をくくって「デザイン」しないと、意味がないのだと思う。

かくいう自分も、最初に働く場所は「勘」で決めました。まあ他にも大学とか恋人とか、大抵「勘」で決めてきた(んで、結構失敗してきた)。自分から成る人生の、デザインは自分で背負いましょう。

どうしても背負えない人は一緒に背負ってくれる誰かを見つけるか、努力して背負えるようになるか、思い切って背負うという行為を放棄して他のフィールドに逃げ出すのもありだと思う。一目散に逃げ出すことも、勇気。

6 Jun 2005

わりきれない世界

自分は、「わりきること」が得意だと思う。
でも、「わりきること」自体は好きじゃない。

例えば、あれとあれは同値(equivalent)だと納得したり、あれはこれを2つとそれを3つ足して5で割ったものだとして比較したり、そうやって身の回りの世の中を「理解」してしまうことが多い。

カテゴライズするとも、概念化するとも、結局・・・だと言うことと言ってもいいけど、そうやって言葉を整理してしまうことは、そこそこできたりする。でも、そんな「理解」は屁でもない、とも思ったりする。

例えば、ナイロビの「空」と多摩市の「空」は違う。どう違うとか、どっちがよいとかじゃなくて、違う、それだけでよいと思う。僕が得た経験は、素敵なそして残念なことに、僕だけのものだ。多分、言葉では伝わらない。

言葉は結局、事象Aを"A"と表し、「"A"は"B"だよね。」と言うことで事象Aと事象Bの等価性を伝えようとする。でも、Aと"A"が人によってずれていて、Bと"B"が人によってずれていて、「うん、そうだよね」といってくれた人には、その人の世界にあるA'=B'としてしか伝わらない。

だからといって、人は分かり合えないと「わりきる」ことは嫌いだ。言葉で分かり合えないなら、「わりきれない」ままの景色を、体験を、世界を一緒に眺めればよい。そして、何も言わなければよい。そんな、「わりきれない」世界の方が好きだったりする。